東京大学医学部脳神経外科

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教室紹介

沿革

医局新聞「燈台」1994年3月号より転載
東大脳神経外科の沿革 − Scriba から最初の脳神経外科学講座まで

佐野 圭司(S20)

脳神経外科( neurosurgery, neurological surgery, Neurochirurgie, neurochirurgie, neurocirgia)とは、昭和40年6月議員立法により、医療法第70条を改正し、脳神経外科を第70条の診療科名に加えた時の議員の提案理由書の定義では、「脳・脊髄および末梢神経に関する外科」である。すなわち神経系の疾患を外科的手段で治療していこうという医学の一分野である。ここでは、主として脳疾患の外科に話を限局する。既に新石器時代から脳や頭蓋の手術は行われていたらしいが、わが国では記録に残った最初の手術は、明治10年(1877年)西南戦争に軍医として従軍した佐藤進が左前頭部に銃創を受けた二等兵にトレパナチオンを行い、陥入した骨片と銃弾を除去し、さらに脳膿瘍を排液したのがそれであろう。この症例は肺炎を併発し、十日目に死亡した(佐藤進著、外科通論、各論、1880年刊)。佐藤は東大医学部の前身、大学東校の最高責任者佐藤尚中の養子(母親の兄が尚中)で明治2年海外渡航免状第一号を得てドイツに留学。さらに、ウィーンに移り、Th. Billrothに師事し、明治8年に帰国、リスター式防腐法を日本に導入した。明治18年(1885年)から東大病院長(第一医院長、兼第二医院長)を勤めたが、後に尚中の後を継いで順天堂医院を隆盛に導いた。

術後の経過の良かった最初の手術例は東京大学外科の最後のドイツ人教師Julius Karl Scribaが明治25年(1892年)12月20日に行った陥没骨折手術であろう。この患者は47歳の男性で、左頭頂部開放性陥没骨折後一年余りを経て、なお右下肢に強い麻痺が残っていた症例で、クロロホルム麻酔下に楕円形の皮弁を作り、二ヶ所の穿頭によりリユール鉗子にて、陥没肥大した骨片を除去した。硬膜の損傷は無く、術後麻痺のかなりの改善を見たという。この例は帝国大学を前年の明治24年卒業し、入局一年あまりの三宅速により翌明治26年(1893年)三月、東京医事新誌779号359-364頁に発表されている。

ちなみに、総合大学としての東京大学の創立は明治2年(1869年)、昌平黌(1630年創立、明治2年に大学と改称)、開成学校(1811年開成所として創立、明治2年大学南校と称す)、医学所(1858年種痘所として創立、まもなく官立の西洋医学所と改称、明治2年医学校兼病院あるいは大学東校と称す)の3施設を合併して大学校と称したのにさかのぼる。近代的な大学になったのは明治10年(1877年)4月12日で、その時東京大学と称したが、明治19年(1886年)3月1日勅令により帝国大学と名称をかえた。その帝国大学医科大学の初代外科、皮膚梅毒科の教授には宇野朗が任命されたが、その5年前の明治14年(1881年)6月にScribaは着任している。また前年の明治20年11月に佐藤三吉がやはり外科の教授に任ぜられている。

明治26年9月7日に帝国大学令が改正され講座制が布かれ、外科学第一講座に宇野朗が、第二講座に佐藤三吉が教授として発令されている。しかしScribaは健在で、その8年後の明治34年9月迄、その任にあったから、宇野朗は兼任の皮膚病学、梅毒学講座に専念し、外科手術はScribaと佐藤により行われたようである。この講座制が布かれた時、同時に外科学第三講座、内科学第三講座も作られたが、前者はScriba、後者はBaelzのために作られたらしい。東京大学医学部百年史は「内科学と外科学の第三講座は外人教師の担当に当てられたこともある」と表現している。おそらく外人であるため正式の担任教授にはならなかったのであろう。Scribaが明治34年9月、二十年間の外人教師生活を終えて退任すると、外科学第三講座はそのまま空席で残った(これがはるか後年−61年後に脳神経外科学講座となる)。これに反し、翌明治35年7月、Baelz(Erwin von Baelz、明治9年(1876年)6月着任した)が26年間の外人教師生活に終止符を打って退任すると、同年10月に入沢達吉が、そのあとをおそって教授となり、これが現在の内科学第二講座となった。

ちなみに、明治26年に講座制ができた時は内科学第一講座は佐々木政吉、第二講座は青山胤通が担任であったが、佐々木のあとは三浦謹之助が明治28年継いで、これが現在の内科学第一講座となり、青山のあとは現在の内科学第三講座となっているので大変まぎらわしい。

近藤次繁(明治23年卒)が外科学第一講座担任教授として発令されたのは明治31年6月28日であるが、当時Scribaは、まだ健在であったので、近藤は手術室の建設に力を注いだらしい。Scribaが明治34年9月に退任すると、その医局はそのまま近藤外科の医局となったらしい。Scriba門下からは近藤の一年先輩の伊藤隼三(明治22年卒)が出ている。伊藤は3年余りのベルンのKocher教授の元での留学から帰り、明治33年(1900年)京都帝国大学教授となった。前記のように明治10年4月に東京大学と命名された東大は明治19年3月より帝国大学を称されるようになったが、明治30年6月に東京帝国大学と称されるようになったのは、この歳、京都にもう一つの帝国大学が作られたからである。ただし、京都帝国大学医科大学は2年おくれて明治32年7月に発足した。伊藤は創設まもない大学の外科をはじめたことになる。伊藤は明治35年(1902年)四月、当時は日本聯合医学会と呼ばれていた第一回日本医学会総会において「脳外科」という特別講演を行ない、46例の脳手術の経験を述べている。水頭症3例、髄膜炎2例、運動中枢部のJackson型てんかん発作を伴うゴム腫1例、三叉神経痛1例、てんかん39例である。また、伊藤は明治39年(1906年)第七回日本外科学会において、顔面神経麻痺に対する顔面神経副神経吻合術2例、顔面神経舌下神経吻合術2例の経験を発表し、好成績を得たと報告している。

前述した三宅速はその後福岡医科大学(現在の九州大学の前身)の外科教授として赴任し、明治38年(1905年)10月20日、27歳男性の「左脳皮質運動中枢におけるグリヲームの抽出」に成功した。記載から見るとgliomaというよりmeningiomaのように思われるが、これが本邦最初の脳腫瘍摘出成功例と考えられる。この例は1907年日本外科学会誌に発表された。三宅はさらに1907年11月15日に31歳男性の左運動野に発生したゴム腫の摘出にも成功し、1909年に東京医事新誌に発表している。そしてこの2例をまとめて、1909年Archiv fur klinische Chirurgieに発表した。このドイツ語の論文により、三宅は日本における脳腫瘍手術の最初の成功者として外国でも認められている。さらにかれは、1911年4月14日、30歳女性の第六頚椎右後根に発生した「繊維肉腫(おそらく神経鞘腫)を摘出した。この例は、もう一例の脊髄円錐の慢性限局性脊髄炎の症例とあわせて、門下の佐藤清一郎により1912年東京医学会雑誌に報告されており、脊髄腫瘍摘出の本邦最初の成功例と思われる。以上はScriba門下の業績であるが、第一外科の内部での脳神経外科はどうか、つぎに述べる。

第一外科助教授の青山徹蔵は、大正11年(1922年)2月から5月にかけ2例の聴神経腫瘍の全摘出を試み、1例死亡したものの、1例全治と成功を収めた(手術は和泉橋慈善病院すなわち現在の三井記念病院で行われた)。この年は、米国のWalter Dandyが世界最初の全摘出成功例を報告した年である。青山の業績は1923年のDeutsche Zeitschrift fur Chirurgie 78:76-88に発表された。青山は大正14年(1925年)12月10日第一外科の主任教授となってからも、かなりの数の脳神経外科手術をおこなっている。

わが国の脳神経外科の開拓者として広く認められている斉藤眞(大正4年卒)も中田瑞穂(大正6年卒)も共に第一外科で外科を修業した後、前者は名古屋大学に、後者は新潟大学に赴任し、各々そこで大活躍をした。斉藤はヨーロッパ流の脳神経外科を日本にもたらした。1924年「脳室撮影」「気脳撮影」、1931年「脳血管撮影」、1936年neurographyなどの業績があげられる。一方、中田はCushing流の緻密な脳神経外科手技を用い、前頭葉切除、大脳半球切除などもわが国ではじめて行った。清水健太郎(昭和4年卒)ははじめ精神科を志し、ついで病理にうつり、昭和6年青山門下となり、青山(大正14年12月〜昭和11年12月)、大槻菊男(昭和11年12月〜昭和23年9月)両教授のもとで脳神経外科に力を注いだ。その学位論文経皮的脳血管撮影は1937年のArchiv fur klinische Chirurgieに発表され注目を浴びた。また、明治41年(1908年)眼科医の高安右人によって眼底所見を記載された若年女性に比較的多い奇異な疾患を佐野圭司とともに研究し、これが大動脈弓、およびそれから発する頸動脈、鎖骨下動脈、椀頭動脈および肺動脈の炎症によることを明らかにし、「脈なし病」と命名した。邦文は昭和23年の「臨床外科」に英文は、Pulseless diseaseと題して1951年Jounal of neuropathology and clinical neurologyに発表された。これは後にTakayasu deseaseと呼ばれるようになる。

清水は昭和23年(1948年)11月より大槻のあとを継いで第一外科の主任教授となった。その少し前、すなわち同年5月新潟で中田瑞穂会長のもとに日本外科学会が開かれた際に、清水は斉藤眞、中田瑞穂、京大の荒木千里及び彼らの医局員数名と共に、日本脳・神経外科研究会を創設した(昭和23年5月4日)。最初の会長は斉藤眞であった。脳・神経としたのは脳をもって中枢神経系を代表させたのであって、中枢神経系および末梢神経系の外科の意であるが、昭和40年6月、議員立法で医療法第70条の診療科名に加えられた時、法律上「・」はつけられないというので脳神経外科となったのである(ただしこの時立法提案者は「脳神経外科」とは「脳、脊髄および末梢神経に関する外科」であると定義している)。この研究会は昭和27年(1952年)から日本脳神経外科学会と改称され現在に至っている。

清水は昭和24年から約一年間、ロックフェラー財団の援助で、戦前の昭和15年から翌年の開戦まで留学したシカゴを再訪し、臨床脳波学に関する新知識をわが国にもたらし、同時にそれまで日本に無かったペン書き脳波計を招来した。わが国の脳波計はこれより急速の進歩を遂げた。

清水の努力によって昭和26年(1951年)6月1日、文部省はわが国で初めて、東京大学に診療科として脳神経外科の設置を認め、外来診療が開始された。さらに同年9月1日、この診療科に担当する講座として、明治26年以来空講座となっていた外科学第三講座をもってし、外科学第一講座の清水が第三講座を兼任した。この外科学第三講座は、やっと定員がついて昭和37年(1962年)12月10日に佐野圭司がその主任教授、脳神経外科主任に任ぜられた。翌昭和38年(1963年)4月1日、外科学第三講座は脳神経外科学講座と改称され、ここに初めて講座名、診療科名ともに脳神経外科となった。清水は同年3月31日定年退官し、4月16日より石川浩一が第一外科学講座の主任教授となった。

ちなみに外科学第三講座(現在の同名の講座とは異なる)は明治26年につくられてから昭和26年9月に清水が兼任するまで一度だけ教授が任命されたことがある。それは、昭和19年6月4日、当時第一外科助教授であった原勇三が死去直前、これに任ぜられ、同日死去したことである。

(以上文中、敬称は全て省略した)

 

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